イギリスでは日々の暮らしのマナーと階級制は細部にいたるまで密接に繋がっている。飲み屋に絨毯が敷いてあるとか、この国特有の湾曲的な表現であるとか、なぜか洗濯機が台所に置かれていることとか、酔っぱらったら大声で合唱するとか、雨が降っているのに傘をささないとか、ミルク・ティーを日に何度も飲むとか、クリケットに熱狂するとか、クランペットを食べるとか、ビートルズとか、モンティ・パイソンとか、スパイス・ガールズだとか、そうした諸々のことは勿論であるが、ひょっとしたらこの国の天気が悪いということさえも原因を突き詰めて考えてみたら、実は階級制と深い関わりがあるのではないかと訝ってしまうほど、この土地に住む限り自分がどの階級に属していて周りの人間はどうなのかといった意識はつきまとうのである。
「荷物が届くんだけどひとりでは持ち上げられないから手を貸してくれないか」と近所にスタジオを構えているCからある日連絡があった。わたしは「問題ないよ」みたいなことを言ってその日の指定された時刻に行ってみたが、「やあ、元気だった?」と彼は他人事のような挨拶をするだけで説明や謝辞など何もない。
日時を間違えたかな、と思って「あれ、荷物が届くんじゃなかったっけ?」と今一度確認をしてみたが、 「ああ、でもまだ来てないんだ」と答えるだけで素っ気ない。おー、全然思ってたテンションと違うなぁ、と立っていると、「中に入りなよ」と彼は建物の中へとわたしを招き入れた。ゆらっと廊下を歩いて部屋に入ったが、これといってやることもないのでわたしは彼の立体作品を眺めるともなく眺めていた。
何か話す話題はないだろうか、何か話題、話題、話題、話題…。そこでふと脳裏に浮かんだこんなことを言ってみた。
「ニューヨークからロンドンへ越してきた友人が飲みの席で言っていたんだけどさ、彼がイギリスに来てすごく驚いたのはワーキング・クラスの人間が目指すところはアッパー・クラスではない、ということらしいんだよね。基本的にアメリカでは金持ちになることを目指すのが当然だと誰もが思っているし、普段どれだけ富裕層の悪口を言っていたとしても、いつかはそういう人達のいるソサエティに入りたいと思ってるんだ、 だって。」
Cは机に軽く腰掛けてゆっくりとうなずいていた。そして「これは一般論だけど」と前置きをしてからこう始めた。
「この国のワーキング・クラスの人間が大金を稼ぎたくないなんてことはそれは絶対にないだろう。ただ大金を稼いだからといってオートマティックにアッパー・クラスになれるわけではないし、そもそも目指してなれるようなものでもないからさ。それにワーキング・クラスの人間にもプライドがあるからわざわざ価値観の違うグループの仲間に入りたいなんて大概は思わないから。」
イギリスのアッパー・クラスとは、王族や貴族など古くからの支配層から受け継がれた血統や家柄のことを意味しており、一、二世代でなれる類いのものではない。そのことからも分かるように、この国における階級制とは、純粋に経済的な要因に根ざしたものであるというよりは、むしろ生まれ育った文化的背景によって区分される言わば各々が所属する部族のようなものである。
各階級にはそれぞれ異なった生活様式や生活 態度、生活機会が存在し、それらがその階級に属する人間の思想、感情、行動を左右している。
そして、Cは続けた。
「この国のアッパー・クラスのお金には歴史がくっついてくるけど、アメリカの富はニュー・マネーだろ。」
イギリスの人間から見たらアメリカ、イコール、ニュー・マネーとなるようだ。財産にも種類の違いがあるということを言いたいらしい。「なるほど」みたいなことをわたしは言った。そしてうんうんと頷きながら、こう応えた。
「分かるよ。でもね、そもそもそのお金に対して“オールド”とか“ニュー”とかっていう感覚は僕にもあまりないんだよね。僕が育った国ではほとんどすべてが“ニュー”だからね。この国ではとにかくまだそのオールド・マネーを持っている人の権力が持続して存在しているからさ、土地とか建物の所有とかで、だからこの国ではその区別が明確なんだよ。」
そうわたしが言うと、Cはこちらをじっと見ながら無表情で「ふうん」とだけ言った。
その部屋の窓からは高速道路が見える。いや、見えるのはその灰色の巨大な道と空だけだと言っても良いかもしれない。Cは以前その眺めが気にいっていると言っていた。殺伐とした景色が世界の果てのようでいいらしい。
わたしには理解し難いことではあったが、実は周りにも彼と同じことを言う人間が少なからずいる。固く、暗く、荒漠とした景色を子供の頃から見て育った者にとっては、そういう眺めが案外落ち着くのかもしれない。ブリークでディストピア的な風景を好む人間が一定数いるということを知ることによって、ブルータリズム建築やJGバラッドの短編小説などの作品がこの国で生まれたことについて理解できる気がしてくるのである。
「でもロンドンは僕らの親の世代に比べたら大分変わったよ。地方の方が、ってつまりロンドン以外の場所ってことだけど、まだまだオールド・マネーで成り立ってるステレオ・タイプの階級制をもっと強く日常で感じるからね。今のロンドンは何というか、すごくダイバーシティの構図がもっと多面的で多様だから、単純に階級や人種でその人物を判断できなくなったと思うし、80年代以降はこの国も新しい富裕層が力を持ってきたから変わったと思うよ。」
Cは少し慎重に言葉を選びながらそう言った。
確かにロンドンという街があらゆるバック・グラウンドをもつ人々が混在する人種と文化のメルティング・ポッドであることには間違いない。そして彼が言うように80年代のサッチャー革命の恩恵を受けた一部のミドル・クラスが大きな富を築き社会的地位を獲得したのも事実である。しかしである。それではニュー・マネーを得たミドル・クラスと野心的なエリート移民が封建的な階級制を取っ払ってこの国のパワーバランスを書き換えたかというとそうではない。わたしの見解では、それら新たな権威や価値観は時間とともに細分化され、旧来の階級制の中にあっさりと組み込まれてしまうのである。この国のそうした根深い封建体制を目の当たりにする度に、わたしは「19世紀にいるみたいだ」と思うのである、良い意味でも悪い意味でもなく。
あまり腑に落ちていないように見えたのだろう、今度はCがわたしに聞いた。
「日本はどうなのさ?この国のアッパー・クラスみたいな支配階級とかいないの?」
わたしははたと考えた、日本のアパー・クラスについて。世襲制が残る伝統芸能、神職、旧華族、政財界の閨閥みたいなことだろうか。改めて聞かれるとわたしはその手のことについてほとんど知らないことに気がついた。
「どうだろうな。いるとは思うけどあまり知らないな。一般的な解釈で言うと日本は敗戦後に財閥解体があ ったりして古いシステムとか考え方を一度強制的に変えられたからね。それでアメリカナイズされた資本主義を受け入れたんだ。だから何百年も続く権力ってのはどうなのかな。」
大きな歴史の断絶を経験していない国の人間にはどう聞こえるのだろう、そんなことをぼんやりと考えていたところでCの携帯が鳴った。そして彼は運搬用の手袋をひょいっとこちらによこし「さあ、荷物を取りに行こう」とわたしに言った。
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